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人形の
歴史と伝統

「ローマは一日にしてならず」
といいますが、
今日、みなさんが目にする
雛人形(ひな人形)や五月人形も、
一日にして出来上がったものでは
ありません。
節句人形はその起源も含めれば
千年以上の歴史を持ちます。
その長い年月の中で、
人形師や人形問屋など
先人たちの努力や試行錯誤の末に、
いまある人形の姿が
でき上ってできたのです。
そこで「お江戸と人形 ~雛店の歴史~」
「雛人形(ひな人形)の変遷」「日本の節句」
の観点から
人形の歴史と伝統について
読み解いていきましょう。

ひながなければ始まらない
江戸の春

お江戸名物ひなまつり

寛永三年(1626年)に江戸から京都の天皇に入内した徳川和子の宮中へのみやげには、御雛道具があったといいます。そこからは御雛道具がひなの本場京都への土産物になるほど、当時の江戸のひなまつりが盛んだったことがしのばれます。江戸時代になると、芝居や物語を通して一般の人々も王朝文化や宮廷生活を知るようになりました。そこからあこがれが生れ、あこがれの文化を感じさせるひなまつりが、江戸の女性の心をとらえ、華やかな行事として定着していったのです。

雛市のにぎわい

ひなまつりが盛んになると、人形の数や種類も増え、雛人形(ひな人形)やひな道具を商う店がならぶ雛市が立つようになりました。市では、娘たちは連れ立って歩き、赤ちゃんを抱いた女の人たちは、臨時の店の前で雛道具の品定めに精を出します。雛店の前で足を止め、人形にみとれる武士の姿もあれば、遠くからやってきたと見える旅支度の人の姿もあります。雑踏の中をお供を従えた籠までが通るといった大盛況ぶりです。そんな、夜も昼もないような賑わいを見せていた雛市の様子が、「江戸名所図絵」に生き生きと描かれています。

雛市は貞享年間(1684~88)には、2月27日~3月2日まで、銀座(尾張町)麹町、人形町、宝町、本石町、十軒店(じゅっけんだな)で立てられました。中でも十軒店の市が有名で、その様子は「江戸名所図絵」に描かれています。ひなまつりが年中行事として普及するにしたがって、享保年間(1716~36)には雛市も数を増して、浅草橋(浅草茅町)、上野池の端仲町、牛込神楽坂、芝神明町などにも雛市が立つようになりました。この頃には市の期間も少しのび2月25日~3月2日となりました。雛市では五月人形もひな人形と同じように売られていましたが、五月人形用の市は4月25日~5月4日と決められていました。

十軒店雛市 天保3年刊 長谷川雪旦 画
国立国会図書館所蔵

雛売りの売り声

江戸の町では、節句が近づいてくると、町の中で雛売りの売り声が聞こえたといいます。天秤棒に葛籠(つづらかご)をふりわけてかついだ雛売りが、軒から軒へと流し歩いたのです。行商の雛売りが扱う人形や雛道具は、店で売っているような豪華なものではありませんでしたが、値段が安かったため、店の人形に手が届かない人達でも手軽に買い求めることができました。雛売りが最も盛んだったのは、明和から安永の初め頃(1760年代~1770年代)で、いつのまにかすたれ、寛政(1789~1801)の頃には売り声を聞くことはなくなったといいます。

東都浅草絵図 / 嘉永六年(一八五三)

雛市と雛店

雛市は、問屋格の大店、常店(とこだな)という常設店舗、人形の作り手たち、店を持たずに節句シーズンだけ人形商売をする零細小売商など各グループの集まりからなる「雛仲間」によって成り立っていました。

当初は問屋格の大店でも、人形だけでは商いが十分成り立たないことが多く、ほとんどが、人形以外に、玩具や足袋、小間物などの生活用品類を商っていたと言われています。

そうした中で、卸売業者として台頭してきた者が、問屋だけの「仲間」をつくるようになりました。この「仲間」は人形問屋組合と呼ばれ、一番組の手遊(てあそび)雛人形組合、二番組の際物(きわもの)雛人形組合の2つから成り立っていました。この人形問屋組合がリーダーシップをとって人形界を支えていきました。

文政七年(1824年)刊行の「江戸買物独案内」にはこの一番組10名のひとりとして、久月の三代目・吉野屋久兵衛が名を連ねています。