雛人形、五月人形、羽子板、破魔弓は人形の久月

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人形の歴史・伝統|雛人形の変遷

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雛人形はわが子への愛の形

ひな人形は、古い文献には、皆「ひひな」または「ひいな」とあります。「ひひな」とか「ひいな」は、平安時代の中期、つまり今より千年ほども前に記述がありますが、紫式部の「源氏物語」や、清少納言の「枕草子」に出てくる「ひいな遊び」という言葉は、紙でつくった人形や布を用いて簡単につくられた人形や、当時の身の回りの道具類を模したお道具類などで遊ぶ、今の「ままごと遊び」のようなものと思われるので、この人形が、ひな人形の元祖と考えてもいいと思われます。
「ひいな遊び」については種々の文献があり、たくさんの諸説があって、この時に始まったと断定することはできませんが、「ひいな遊び」は平安中期には存在しており、夫婦になぞらえた男女一対の「ひいな」を中心とした遊びであり、宮廷を中心としたものということは、はっきりしています。

天児

天児(あまがつ)は幼児の守りとしてその枕もとにおいた「形代(かたしろ)」の一種で平安期の貴族家庭で盛んに用いられた。白絹(練絹)の丸い頭をつくり、目、鼻、口と髪が描かれている。これに衣裳をつけて飾り、幼児を襲う災いや汚れをこれに負わせる。

這子

天児(あまがつ)と同じころから、同じような目的で登場したもので「白絹の四隅を縫い合わせて綿を入れ腹の部分でくけて胴にすると、四隅が手足となる。目鼻口を描き、男の子のものは口を開かないように、女の子のは口を開いているように描く」(室町時代「御産之規式」)とあり、頭には絹糸の黒髪を垂らし、金紙で束ねてある。縫いぐるみ人形の原形といわれる。

室町雛

立ち雛から座わり雛への時代が訪れてくるが、この座わり雛の原型は「室町雛」などの名称で存在する古雛があるように、室町期すでに芽生えていたものであろうか。最初のころの座わり雛は、「骨董集」の図にある「室町雛」のように、男雛は直衣姿で白絹の袴をつけ、女雛は袖を張って紅絹の袴をつけている。この形式に近いものであったことが想像される。

寛永雛

江戸初期三代将軍家光時代の寛永(1624~1644)のころのもので男雛は12センチ余、髪は冠とともに黒塗りで、髪をうえる技法以前の作品であることがわかる。頭と冠とは、ひとつの練りものでつくられている。いわゆる共冠式である。女雛は、9センチ余、男雛と同じ小袖をつけ、袖を左右にひろげている。唐衣も裳もつけず天冠はまだのせてない。その姿態には紙雛時代の名残をどこかとどめてはいるが、雛が立体化されて人間らしい形を整えて来た時代を思わせる。これ以後に登場してくるさまざまな内裏雛の源流というところである。

享保雛

享保(1716~1736)ころには、寛永雛を更に、高級化した「享保雛」が流行する。比較的に大型のものが多く、高さ約45センチから、時には60センチ以上のものが見られた。寛永雛と同じような面長の顔だちで二重描目の写実的な表情をしており、装束は金襴や錦を用いていた。大型で、しかも豪華な装いをしたこの享保雛は、ときの幕府から「ぜいたく」すぎるという理由で、しばしば製作取締りの禁令が発せられた。男雛は、両袖を極端に張って、太刀を差し、笏を手にする。女雛は、五衣、唐衣姿で、袴は綿を入れて丸くふくらませてあり、手に檜扇をもっている。

次郎左衛門雛

次郎左衛門雛は、京都の人形師菱屋、岡田次郎左衛門がつくり始めたものという。製作者が、10代将軍家治のころ、宝暦2年(1761)に江戸へ下り、日本橋室町にその人形店を開いてから、ひろく普及するようになった。男雛は黒袍に袴の公卿束帯姿。女雛は五衣、唐衣に裳の姿で大きな特徴はその顔だちにある。これまでの雛に比べて顔が丸く引目鉤鼻の気品に満ちた表情をしている。これは天児の顔にならったものという。写実的な傾向をたどってきた内裏雛に、復古的な典雅さをもちこんだ次郎左衛門雛の清新さが、江戸の人気を独占し、宝暦から明和、安永、天明、寛政年間まで、約30年の間にすっかり代表的な江戸雛の位置を確保した。

有職雛

公卿の装束を有職故実に基づいて正しく雛人形化したもので「親王雛」「高倉雛」「山科雛」などともいう。明治期以降には「有職雛」の名で呼ばれている。この雛は、公卿が人形師に注文してつくられたのが始まりで、なかには頭だけを人形師に注文し、装束は公卿家庭の女性たちの手細工でつくる「お細工雛」というのもあった。衣冠姿や公卿の平常服の直衣姿の「直衣雛」が主で着せ替えの装束も添えてある。直衣雛は顔の彫りも写実的につくられている。

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