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天保六年(1835年)、風薫る五月、神田川のほとりに、初代横山久左衛門(きゅうざえもん)が人形師・久月の表札を掲げました。時に久左衛門40歳。不惑からの出発でした。これが雛人形問屋・久月の始まりでした。
天保時代は飢饉など社会不安の大きい時代、幕府は庶民の生活を引き締めようと躍起になっていました。しかし、そんな中でも、滑稽本や人情本が盛んに出まわっているような時代でした。
久左衛門は小さなころからモノ造りに関心が高く、子供時代はタコやコマなど遊具づくりに夢中になり、青年になるころには人形を好んで作っていました。もって生れた器用さと絵心と独創性で、久左衛門のつくるものは近郷近在の人々の評判でした。おおらかでこだわらない性格の久左衛門は、自分の作品を求められれば喜んでわかち与えていたといいます。
40歳にしてようやく人形師・久月の看板を掲げたものの、好きな人形づくりばかりをしている訳にはいきませんでした。自分の求める美しい人形を作るために、子供の玩具を作って生活を支えるという日々でした。 |
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| 父久左衛門の手助けをしながら後継ぎとして修行をしていた二代目・久兵衛(きゅうべえ)は、30歳の時、大きな決断を下しました。創業の地を離れ茅町二丁目に転居し、10歳の息子を修行のために、当時人形・玩具の大問屋であった茅町一丁目の吉野屋徳兵衛の元に奉公に上がらせたのです。
理想主義的で世事や商売にうとい芸術家肌の父、初代・久左衛門と異なり、現実主義的な見識をもった息子の二代目・久兵衛は、人形を通じた商売の可能性に魅力を感じたのでしょう。わが子を一流の人形・玩具の大問屋吉野屋に修行に出すことで、その商法を学ばせ立派な商人として独り立ちさせようとしたのです。ゆくゆくはその経験と知識を活用して、久月を一流の人形問屋に成長させようという願いが二代目・久兵衛にはあったのです。 |
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| 10歳で大問屋に奉公に上がった幼い三代目・久兵衛は、老舗の格式に沿った厳格な教育をうけることになりました。礼儀作法から始まり、立ち居振る舞い、商法と、商家の習慣は知らないことばかりでした。しかし、利発で負けん気の強かった三代目は、年ごとに商いを覚え、二番格の番頭にまで取り立てられるようになりました。さらに、入店から18年後の27歳になった時には、暖簾分けで大店・吉野屋の屋号を使用することを許されたのです。三代目・久兵衛は吉野屋久兵衛として人形問屋を始めることになりました。 |
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息子の四代目・久兵衛は、父の吉野屋久兵衛から老舗大問屋仕込みの商法を幼い時から伝授され、若冠23歳で店を引き継ぎました。店主となった彼が真っ先に手がけたことは、初代・久左衛門が創業時に掲げた〈久月〉という屋号の復活でした。四代目は、掛け値販売が習慣だった人形業界で他に先駆けて正札販売を導入するなど、流通機構の変化を機敏に察知した先見の明のある経営者でした。
時代はすでに明治、文明開化の新しい時代の中で、四代目・久兵衛は自分の店を雛人形問屋・久月として再出発させたのです。 |
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現在、本社表玄関の正面に掲げられている〈久月総本店〉の看板は、五代目の時代、昭和の初めに作られたもので、当時、浅草蔵前の華徳院の住職でもあった書家、豊道春海師の揮毫(きごう)によるものです。この看板が掲げられた建物は、三階建ての大きな土蔵造りで、家並みの低かった当時の蔵前通り(現江戸通り)ではひときわ目をひくものだったと言われています。江戸時代からあった土蔵造りの大店舗を、関東大震災で被害を被った時修復したもので、1976年に現在のビルに変るまで、道行く人に江戸の風情を伝えていました。 |